※2月22日(日)礼拝の動画準備ができませんでしたので、文書のみをご提供いたします。
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「父と母を敬え」出エジプト記 20章12節
今朝の御言葉は、十戒の中の第6の言葉、「殺してはならない」です。
1.なぜ、人を殺してはならないのか
毎日のように殺人事件が報道されています。人の命が軽視されています。そのような時代だからこそ、「殺してはならない」というこの戒めの大切さを思います。
では、なぜ人を殺してはならないのでしょうか。
創世記1章27節には、こう記されています。
「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」
神は人を「神のかたち」に創造してくださいました。それは、神の語りかけを聞き、神の語りかけに応えることができる存在、神のパートナーとして人を創造してくださったということです。神は人を、これほどまでに尊い存在として造ってくださったのです
さらに、創世記2章27節にはこう記されています。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
神が命の息を吹き込んでくださって、初めて人は生きるものとなりました。神が人に命を与えてくださったのです。神によって生かされているのです。
人は、神のかたちという尊い存在であり、命は神のものです。それを人が奪ってはならないのです。ですから聖書は、「人を殺してはならない」と告げているのです。
2.隠れた殺人
多くの人は、「私は人を殺したことなどない」と言われると思います。では、実際に人を殺していなければ、この戒めとは無関係なのでしょうか。
主イエスはこう言われました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる」(マタイ5:21~22)。
さらに、「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです」(Ⅰヨハネ3:15)とも言われています。ドキッとする言葉ではないでしょうか。
ですから、ハイデルベルク信仰問答の問106ではこう言われています。
「神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、ご自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること、またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心などは殺人の根だという言うのです。このような思いを持ち続けていると、あるとき、人を刺すような言葉となって出てしまったり(言葉による殺人)、行動となって表れ、人を傷つけたり、究極的には人を殺してしまうということさえ起きてしまうのです。ですから、これらの思いを持ち続けるということは、隠れた殺人であると言われています。このことを自分に当てはめてみると、私には関係がないと言える人がいるでしょうか。私も隠れた殺人者だと思わずにいられないのではないでしょうか。
3.キリストは命を与える方
「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました」(Ⅰヨハネ3:16)。
キリストは、私たちを救うために来てくださいました。ここで「私たち」と言われているのは、「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです」と言われていた「私たち」のことです。その私たちのために、キリストは命を捨ててくださったのです。
キリストは、罪ある私たちのところにまで降りて来てくださり、すべての人の代表として、すべての人の罪を負って十字架にかかって死なれ、すべての人の罪が赦される道を開いてくださったのです。
さらに、聖書はこう言っています。
「私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」(ローマ6:4)。
十字架の恵みは、私たちの罪が赦されるだけではありません。
私たちは十字架につけられたキリストと共に死に、復活されたキリスト共に生きるのです。ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心に支配された私はキリストと共に死に、滅ぼされたのです。そして、復活されたキリストと結ばれて、私たちは新しい命に生きるのです。洗礼は、この恵みにあずかるスタートです。そしてこの恵みは生涯にわたって続くのです。ますます豊かにされていくのです。
4.新しい生き方
「殺してはならない」という教えは、ただ「人を殺してはならない」というだけでなく、命の尊さを教え、命を守り、そして人を生かす者になれ、という教えです。
そこで、いくつかの問題について、考えておきたいと思います。
①自死(自殺)
「人を殺してはならない」ということは、自分の命も自分で絶ってはならない、ということです。命は神様のものなのですから、自分で自分の命を絶ってはいけないのです。それは神様が悲しまれることです。
その上でですが、人生には死んでしまいたくなるほどの苦しみに直面することがあります。また、病気などによって正常な判断力が低下してしまい、自死に至ってしまうということもあります。
ですから、「殺してはならない」と伝えるだけではなく、何よりも、神は苦しむ者の神でいてくださるということを伝えることが大事なことです。「神様、助けて」と叫ぶ祈りに、神様は応えてくださるお方です。
また、教会は苦しいときに苦しいと言える場、それを黙って聞いて受け止めて、苦しみを共に苦しみ、祈り合い、そのようにして慰め合い、励まし合い、共に生きていく場です。そのような教会の交わりをさらに深めていきましょう。
②戦争と平和
これは、今、私たちが直面している大きな問題です。
キリスト教会には、大きく分けて2つの考え方、立場があります。
一つは、絶対平和主義です。この考えに立つ人々は、兵役に就くことを拒否します。そのために激しく非難され、迫害されるというところを通ってきましたが、良心的兵役拒否ということが認められるようになってきました。この絶対平和主義に対しては、自分の国が侵略されても守らなくてよいのですか、という問いが出されます。
もう一つは、正義のための戦争は必要悪として認めるという立場です。自分の国が外国から侵略されるような場合、最終的な手段として戦争を認めるという考え方です。ただし、戦争はどちらの国も正義の旗を掲げ、正義と正義の戦いになることが多いものです。自分の掲げる正義だけが正義なのですか、という問いが出されます。
戦争の問題は、このように簡単に答えが出せる問題ではありません。そこで、主イエスの言葉に聞きましょう。主イエスは「平和を造る人々は、幸いである」(マタイ5:9)と言われました。平和は造っていくものです。私たちは身近なところから、平和な関係を造っていく者でありたいと思います。そして、諦めないで平和のために祈っていきましょう。
③死刑制度、妊娠中絶、安楽死
これらの問題をどう考えていくか、今、ここで、詳しく論じることはできませんが、ただ律法的に「いけない」と言うだけでは済まされない問題です。母胎を守るために中絶せざるを得ないという場合もあるでしょう。
そこで最後に、ハイデルベルク信仰問答の問107に記されている言葉を聞きましょう。
「この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」
神が求めておられるのは「自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、…わたしたちの敵に対してさえ善を行う」ということだと言います。難しい課題に対してすぐに答えを出そうとしないで、諦めないで忍耐強く取り組み、小さなところから平和な関係を築き、考えの違う人に対しても寛容な心で対話を続け、慈愛と親切を示していくことを神様は求めておられます。そこに、命を尊び、命を守り、人を生かしていく道があるのです。 これは、道徳の教えではありません。キリストが私たちに命を注いでくださり、争いのある世界の中で、このような歩みをさせてくださるのです。私たちの内にいてくださる主イエスがさせてくださるのです。父なる神がさせてくださるのです。