「私は復活であり、命である」ヨハネによる福音書 11章17~27節
1.ラザロの死
ベタニア村に、マルタとマリア、そしてラザロという兄弟姉妹がいました。
この兄弟姉妹は、主イエスととても親しい交わりを持っていました。ところが、
ラザロが病気で死んでしまったのです。主イエスが到着したときには、亡くな
ってすでに4日もたっていました。マルタは主イエスに言います。「主よ、もし
ここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」ここに
は、「なぜもっと早く来てくださらなかったのですか。もう手遅れです」とい
う思いが込められているように思います。死んでしまったら、もうどうするこ
ともできない、これが死の現実です。
2.私は復活であり命である
主イエスがマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは答
えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じています。」これは、
素晴らしい希望です。私たちも葬儀の時、この希望をもって葬儀をします。
主イエスはそのマルタにさらに言われました。「私は復活であり、命である。
私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死
ぬことはない。このことを信じるか。」これは、どういう意味でしょうか。
主イエスは言われたのです。「私は十字架につけられて殺されるけれども、
死を打ち破って復活する。私は死によっても滅ぼされない命そのものである。
私を信じる者は、肉体の死を通ることがあっても滅びることはない。永遠の命
に生きる。」そして、さらにこう言われたのです。「今、生きていて私を信じ
る者は、決して永遠の滅びである死を迎えることはない。復活を信じるという
ことは、終わりの日の希望が与えられるだけではない。今、あなたは復活の命
に生きる。私は、悲しみの中から立ち上がる力を与える。」
3.はい、主よ
主イエスはマルタに言われます。「このことを信じるか。」すると、マルタ
は答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであ
ると私は信じています。」マルタは、悲しみの中から復活の主に支えられて立
ち上がることができたのです。ベタニアとは、「悩む者の家」という意味があ
るそうです。この世はまさに「悩む者の家」です。そこに主イエスは来てくだ
さり、復活の希望と命を与えてくださるのです。