2024年9月15日(日)礼拝説教「残りの生涯をどう生きるか」ペトロの手紙第一 4章1~6節 2024年9月16日 「残りの生涯をどう生きるか」ペトロ第一 4:1~62 節に「残りの生涯」という言葉が出てきます。今朝は恵老感謝の礼拝ですが、主は、残りの生涯をどう生きたらよいと言っておられるでしょうか。ただし、ペトロ第一の手紙は、洗礼を受けて間もない人たちが多かった教会に宛てて書かれた手紙だと言われています。ですから、ここで言われている「残りの生涯」とは、「洗礼を受けた後の生涯」ということが言われています。1.人の欲望によってではなく「かつてあなたがたは」と言って、神様を信じる前の生き方がどのようなものだったかが記されています。それは、自分の欲望を満たそうとする生き方で、そのような生き方は、ブレーキが利かず、「度を越した」ものになってしまうのです。私たちは、人生の最後に神の前に立ち、その生き方が問われる時が来ます。聖書は、「もうそれで十分です」と言って、そのような生き方から離れるようにと言っています。2.神の御心によって聖書は、自分の欲望に従って生きるのではなく、神様の御心に添った生き方をしようと勧めています。「キリストは肉に苦しみを受けられた」とは、キリストは父なる神様のみ旨に従い、十字架の道を歩み抜いてくださったということです。このキリストの十字架のゆえに私たちは救われたのです。そこで、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言われています。イエス様は、最後の晩餐の時、彼らを「最後まで愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)と記されています。そして、弟子たちの足を洗ってくださり、そして、こう言われました。「私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」。「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」とは、このイエス様の心を私たちの心とさせていただいて、愛と赦しに生きよ、ということです。「肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです」とは、難行苦行をすると罪との関わりを絶つことができる、ということではなく、イエス様から愛をいただいて愛と赦しに生きていったら、自分の欲望を優先するような罪の中に留まっていることはできず、そこから離れることができるということです。3.希望福音の恵みは死によっても断ち切られることはありません。私たちは、神によって、神のように永遠の命に生かされるのです。パウロは、切に願っていることは「私の身によってキリストが崇められること」だと言いました。「崇める」とは「大きくする」という意味です。愛と赦しに生き、キリストが大きくされていく、そのような残りの生涯を歩んでいきましょう。 共有:クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)